2020年2月3日月曜日

よみがえる昭和の記憶──鉄道博物館

2019.12.21【埼玉県】

 関心はあったのですが、開館から10年以上経過してしまいました。都内に暮らす者には、大宮は遥かなり……


 遠いイメージのある埼玉県ですが、戸田公園訪問時に感じた「これなら行けそう」の勢いで、大宮まで足を伸ばしました(大宮は何十年ぶり? 新しい駅ビルの駅ナカは品川駅のよう)。この日は、東京駅から上野東京ライン直通運転、大宮駅からニューシャトル(ひと駅)を初めて利用する「鉄」な一日に。

 鉄道博物館は、JR東日本創立20周年プロジェクトとして2007年に開館しますが、06年閉館の交通博物館(旧 万世橋駅)とは運営団体が異なるため後継施設とされないそう。
 右は、国産のDD13形ディーゼル機関車の連結器。

 時代は変われど、動くモノに対する子どもの関心は高く、屋外に線路を敷いたミニ運転列車(アトラクションのような乗り物)は人気のため、あきらめ切れずグズる様子も以前と変わらないように。

 右は、懐かしい出札窓口の光景で、硬券(こうけん:硬い厚紙の乗車券)差し、左の日付けを入れるダッチングマシン(名称を初めて知った)、改札を兼ねる際のハサミと、切符に注釈を書くための赤鉛筆。
 ガキ時分に、硬券の表裏をはがして改札員に渡したこと等を思い出し(失礼しました)、改札員(リンク先はYoutube)のストレスは大変だったろうと……


 初めて券売機の薄い切符を手にした時は偽物のように感じ、「これで大丈夫?」と不安でしたが、そこから自動改札機に向かうとは想像もしてなかったし、近頃は切符を扱う改札機も少数派になりました。
 右の券売機はこどものボタンにカバーが付いてますが、各ボタンにカバーが付く券売機があり、当時は面倒と感じたが、エラー防止デザインの先駆けだったようにも。

 硬券の裏に印刷される四桁の数字を、四則計算で一の位がゼロになるか、競った覚えがあります(薄い切符にもあった?)。近頃は切符を手にする機会が少ないため「どこに入れたっけ?」と不安になったりします……


 上は、以前の指定券販売窓口のテーブル。路線別のページ(?)をパタパタめくり、駅名にピンを差し込んで発券するシステムで、通称も「パタパタ」だったそう。同時期か不明ですが、山口百恵『いい日旅立ち』キャンペーン(1978年〜)(リンク先Youtube)のイメージと重なります(自分で切符を買い遠出し始めた時期)。
 展示される「シュプール号」の利用は覚えてないが、開通した上越新幹線の駅前に広がるスキー場(湯沢方面)の便利さに驚きました。それ以前は夜行列車・バスでした……


 鉄道車両の箱型イメージを最初に打ち破ったのは小田急ロマンスカー(1957年)だそうで、物心ついた頃の3100形 "New Super Express"(63年)が強烈だったため、初代の旧型を偽物扱いしていた記憶があります。
 それを凌駕したのが、弾丸のような夢の超特急ひかり号(64年 リンク先Youtube)でした。「こだま」を在来線の特急扱いとし、「ひかり」を超特急料金の格付けとしますが、75年山陽新幹線全線開業から「ひかり」停車駅が多様化したため、超特急料金は撤廃され呼称も消滅します(「のぞみ」で料金格差が復活)。車内放送で「Super Express」(特急は「Limited Express」)と流れるのはそんな名残か?
 時代背景もあるが、子ども心に「超特急」の響きに夢を感じていました……


 上は以前の列車案内で、ガキ時分に上野駅から夜行列車に乗る際は、列車ごとの看板に並びました。行儀よく並ぶ光景は現在と変わりませんが、車内の猥雑な空気(夜行では即宴会が始まり「早く寝ろ!」の苦情も)を感じる機会は、もうないことと……


 「あさかぜ」は、「日本最初のブルートレイン:1956〜94年」として東京〜博多間を結んだ寝台特急。寝台列車に初めて乗ったのはガキ時分で、かなりハイテンションで3段ベッドの「一番上!」に寝ますが、結構天井が低いため何度も頭をぶつけた記憶があります。
 寝台列車に感じる旅情とは、思ったほど眠れずに早く目覚めてしまう、休まらない状況のことかもしれないが、それも思い出です。

 「未来の鉄道」展示に「リニア中央新幹線」がないのは、JR東海が主体の「リニア・鉄道館」に展示されるためらしい(ここはJR東日本の施設)。

 鉄道は物心ついてからずっと身近な存在ですから、様々な思い出がよみがえります……

 この日の帰り際に先代のカメラが動かなくなりました。
 13年間故障なく付き合ってくれたことに、感謝です! ありがとうございました。


追記──DIVAの覚悟を背負った薬師丸ひろ子

 NHK「SONGS」 で、朝ドラ「あまちゃん」劇中曲「潮騒のメモリー」(2013年 リンク先Youtube)を初めてライブで歌ったと語ります。この曲は、舞台である東日本大震災の被災地(三陸鉄道沿線)に向けたエール(応援歌)で、三陸鉄道全線開通に際して、津波で駅が流された「島越駅」で披露していました
 それは、レパートリーから選曲する作業とは異なり、歌う意味も含めDIVA(歌姫)の覚悟を背負うもので、自分がやるべき事を引き受ける心意気は、高倉健さんの背中から学んだのではないかと(彼女こそ健さんの弟子のように)。
 アイドル時代からきっちり歌う女性でしたが、おばちゃんになっても真摯に歌い続けるからこそ、思いが伝わるのではないかと……

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